こけしの話(23) 鎌田文市

 公私共に多忙な時期の後にすっかり体調を崩してしまった。この間、仙台で展示会があったり、都内某店で古いものの販売などがあったようだが、無縁に終わってしまった。無為庵のこけし蒐集熱も少々薄らいできたようだ。こけしの話もいつまで続けられか心もとないが気が向いたときにでも更新しようと思う。ご感想などいただけるとさいわいである。



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今回は鎌田文市、愛玩鼓楽177番をとりあげる。鎌文は制作年代が長期にわたり、古品の数も少なからず残っていることもあって、入札会やネットオークションでは余り人気のでない工人である。愛玩鼓楽にも11本の古品が並び、他のコレクション図録での紹介も少なくはない。ところが図録での鎌文の扱いは他のこけしに比べ一様に申し訳程度に紹介しているにすぎない。同じ弥治郎系でほぼ同時代を生きた春二や久治と比べても軽い扱いになっている。選者の見識と先達の評価の集積によるのであろうが、鎌文旧作はもう少し見直されてもよい。



 今回掲載品は松屋で最初の鼓堂旧蔵品売り立てが初見だが、その存在感と迫力には一驚した。購入したい旨を告げたところ、暫くは持っていたいのでと断られてしまった。その後の売り立てでは展示されることもなかったので「あの鎌文は?」と訊くと、「テレビの横にたっていますよ、見飽きないこけしですよ」との返事がかえってきた。無為庵の親しくする某民芸品店でこの話をしたが、そんな話も忘れてしまったある日「テレビの横から引っ越してきましたよ」とこのこけしを見せられた。気にかけてくださった民芸品店ご主人にただただ感謝するばかり。



 鎌文といえばあどけなくも典雅な表情と均整美が命といえる。「こけしの美」掲載鹿間鎌文は隙のない絶妙な姿形をなしており、余程造形感覚のすぐれた工人であったに違いない。鎌文旧作の表情は無心に笑う幼児を穏やかに表現しているかのごとくであって実に素直に邪心の翳りを微塵も見せない。これが一見したときのインパクトのなさともなり、先達の高い評価を受けられなかった所以のようだ。



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 左図は表情のアップだが実物の伸びやかさが出ていない。球体を平面化する写真では往々に見られる現象だが、存在感が減殺されてしまった。愛玩鼓楽解説では「への字に結んだ口が珍しい」と珍奇さに着目している。鎌文旧作の二字口は上唇長く上方に湾曲するのが通例であるが何故かこのこけしは両端が下を向いている。「への字」というのは的外れだが、口を写実的に描くと口角が下がるのは不思議ではない。このような議論は鑑賞上は何の意味もないが、笑みの象徴としての口の上方への湾曲をこけし本来の表情と考えているとすれば鑑賞の範囲を狭めることになりかねない。



 さて、この鎌文は正面から見ると鬢がほとんど見えないほどに顔面を広くしている。顔面の横広がりは格好の道具立てであり、両目の間隔を広くすることで幼児期の表情を映しやすくなる。このこけしは幼子の目に理知の輝きを加え、少し大人びた子供といったところであろうか。この目にニコニコマークの口は似合わない。口角を下げ写実的な口にすることで意志の強さを表している。この目と口が作る聞かん気の表情を阻害しないように鼻はおしるしほどに描かれている。首の受けはインパクトの強い大きな頭を胴へとつなぐクッションとなって効果的であるが、胴の造形は極大寸のためか締まりに欠ける。とはいうものの全体としては往時の東北の子供を髣髴とさせる存在感に満ちた仕上がりになっている。



 あどけなくも無心に笑う鎌文も、絶妙な造形の鎌文も、このような意志の強さを示すような鎌文もあり、地味ながらもそれぞれの味をじっくりと楽しめる鎌文の世界は再評価されて然るべきと思うのはひとり無為庵のみなのであろうか。(尺7寸)





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