帰宅難民の話

 去る3月11日東北から関東にかつてない巨大地震が襲来した。多くの人命が失われ、原発事故もあって、幾多の方々が困難な生活に直面している。家族、親族、友人、知人を失い避難生活を余儀なくされる心情や如何ばかりか想像に絶する。お見舞いの言葉も無い。一日も早い安寧を切に祈念する。



 地震発生時、無為庵は大田区内の勤務先でかつて体験したことのない揺れについに来たかと覚悟した。建物外に避難する際、足をとられそうになった。地面が波打ち、建物も樹木もゆらめき、国旗掲揚ポール先端が右に左に数メートルも振れていた。延々と続き、いつ崩れるかと離れたところから見ていたが、持ちこたえた。震源が分からなかったが、大変なことになったに相違ないと感じながらも、ガスの点検等に追われ、4時頃事態を知った。



 電話も不通で家族の状況も分からず、何はともあれ帰宅しようと、職場を出たのは5時前だった。道路は渋滞し自宅までの50キロを国道沿いに歩く決心をした。トイレの拝借に立ち寄った警察署で道順を尋ねたところ、距離がありすぎるから帰宅難民向けの開放施設で一夜を過ごすよう強く勧められたが断った。明るいうちはよかったのだが、暗くなるに従い地面が見えづらくなり、日も落ちると停電地区では暗がりに自動車のライトが眩しく、高いところは見えるのだが、足元が全く見えない。道路の僅かの段差に幾度転倒しそうになったことか。バリアフリーには程遠いと思い知った。心配していた橋も無事で多摩川、鶴見川を越え、横浜付近までたどり着いたとき、東京方向へ向かう賃送表示のタクシーを見つけた。10時頃のことだった。



 これさいわいと乗り込むと「全く動かないからいつつくかわかりませんよ」とのこと「とにかくそこの信号を左折して国道をおりてわき道をいってくれ」と発車した。鎌倉街道を目指したが、国道は身動きできず、住宅街を縫うように走行し、一時間近くかかってやっと鎌倉街道に出た。嘘のように空いていて程なく自宅についた。古い建物なのでかなり心配をしていたが、ほとんど落下物もなく家人も無事で安堵した。



 途中でタクシーに乗れなければ帰宅ができたかどうか心もとない。連絡が出来ないことがいかに不安を醸し出すか、停電の夜道がいかに歩きづらく疲労感を増すか、喉の渇きとトイレの不便への対処の困難、その他色々と実感した帰宅路であった。



 今回、高橋武蔵のタイトルにしていたが、前置きが長くなってしまったのでタイトルを変えた。こけしは次回にまわす。37年の宮仕え最後の日に。





この記事へのコメント

黒部 宗市
2011年08月05日 22:39
私は3月11日中国貴陽で地震のことテレビで知りました。13日帰国し成田からリムジンバスで横浜YCATまで乗りそこで拾ったタクシーの運転手から「東横線沿線の東京方面から鎌倉方面に向かって歩いて帰宅しようとしていた人と横浜で会い鎌倉まで走った」と云う話など聞きました。当時の地震津波で街が大変だったことを知り驚嘆しました。
私こけし収集の趣味を有して居りYahooオークシンで何度か無為庵さんにお世話になったような気がします。
今回の記事と私の経験がひょっとするとどこかが一致しているのかと思って書かせてもらいました。
2011年08月05日 22:39
黒部さま
3月11日に東京から鎌倉方面へ歩こうとした人は少なからずいたと思います。貴殿の乗車されたタクシーが小生の乗車したものとすれば、他生の縁かもしれません。歩くのはもううんざりと思っていたのですが、昨日は2時間ほど歩きました。いずれこけしの記事で更新しますので、また、ご覧ください。コメントをいただきありがとうございました。 無為庵

この記事へのトラックバック