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zoom RSS こけし文献・「れってるのこけし」の話

<<   作成日時 : 2017/04/10 01:20  

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 今年も3月11日に記事を更新する心算だったが、当日は孫の相手に過ごしてしまった。その後、準備した予定稿も中途のまま、ある騒ぎに多大の労力をかけることとなり、時を空費した。遅まきながら、あの震災で亡くなられた方々の御霊安かれと祈る。予定稿は梅にまつわる「鎌倉十二所ある記」であったが季節感が合わないのでテーマを変えた。予定稿のうち印象深いある出会いだけは紹介したいので、まずは出会いの話から。

 十二所歩き後の3月10日民芸「おもと」を訪ね、はからずも若い男性客に出会った。初対面ではあったが、直向きに取り組む姿勢に共感し、こけし談義に花を咲かせた。時間を気にするそぶりに聞けば、神奈川県民最後の日で今夜の夜行バスに乗り新潟へ移転するとのことだった。彼の地で結婚し新生活をスタートさせるという。新たな門出の直前の人に出会うなど稀有なことで、「一期一会」の極みと思い、無為庵一人の万歳三唱と拍手で旅立ちを見送った。君に幸あれと衷心よりエールを送る。
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 最近、こけしの家主川口貫一郎作「れってるのこけし」を入手。平成七年十月十日限定五十部の復刻版だが、当初の刊行は昭和二十六年十月一日限定二十部いせこけし会と奥付にある。小振りの蔵書票のような版画20枚を貼り付けた和綴じの小冊子である。当初刊行時の状態は分からないが、内容は同一と思われる。見開き書名の下に「こけしとくらすあけくれはいつにかこんな子できました」とあり、さらに「日本独立の秋 こけしの家主」と記す。一頁目の木村吉太郎と思える小版画にはこけしの両脇に「独立日本」「第一日雨」と二行に配す。見開きと冒頭の「独立」にいかばかりかの思いが詰まっているのだろうか。
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 サンフランシスコ講和条約は昭和26年9月8日に署名、翌昭和27年4月28日に発効し「昭和27年条約第5号」として公布された。「れってるのこけし」刊行は奥付によると昭和26年10月1日であるから、僅かひと月足らずで彫り、摺り、製本等一切合財を行ったことになる。実際には、講和条約署名以前から準備し、刊行は10月1日よりも遅かったかもしれないが、それにしても短期間での上梓には並々ならぬ思いがあった筈である。その思いを探る手がかりになると思われる記事がある。東京こけし会発行「こけし」第24号(昭和18年正月)川口貫一郎著「こけしの美」(3)だが、一部を以下に紹介する。旧漢字を当用漢字に改め、括弧内は無為庵加筆。

 「純朴な山村の片田舎に生まれた、きぼこなればこそ簡素何等装飾をもつけず、田舎丸出しの純情そのものである事が一大特質とも云ふべく、斯くして自然、手足のない木隅(原文のママ)に對し、其正に運動を起さしめんとする、姿態を想起せしむる魅力を我々に感動せしめる、斯くの如きは、こけし以外の何者も為す事はできないであらう内に蔵せられた此の力こそ、正に日本精神の顕現であって、一大威力でなければならない。(改行)今正に発揮爆発した今日の大東亜戦争に起ける、我軍の大勝利こそ、この内に秘めた力の現れではないであろうか。」(「こけしの美(3)」抜粋)

 昭和18年初頭、前年から戦況が暗転し、軍国一辺倒が一層求められた時期にあって、こけしの世界にまで軍国主義的な装いが登場した。川口貫一郎氏もその時代の中で、日本精神と軍国を純粋素朴に支持したのであろう。今の目で見れば、こけしと軍国精神を結びつけるなど思いもよらないが、時代の空気には無意識に染まるようで当時は当然のことと受け止められたらしい。その1年後、「こけし」誌も休止に追い込まれるが、昭和19年正月の休止の挨拶には「本年こそは趣味を捨ててまでも、飲まず食わずで戦はねばならない年」と記し、戦意を披歴するにもかかわらず、こけしへの未練も見える。その後、敗戦を迎え、軍国精神が一夜にして崩壊する様をどのような気持ちで見ていたのか。こけしと軍国精神を結びつけたことをどう整理したのか、傷ましくつらいことであった筈だが、その答えが「こけしとくらすあけくれはいつにかこはんな子できました」にあるように思え、胸にしみる。

 本の内容紹介を少々。「れってるのこけし」には20枚の版画が貼付され、うち18枚にこけしの絵が描かれるが、作者を推定できる絵は半数ほどで、「湯田古型」、「湯野沢こけし」、大正期「飯坂」など貴重なこけしの絵もある。解説は一切ない版画集だが、飯坂のこけし絵には産地、サイズ、入手年が記載されているので紹介する。飯坂の作り付けこけしの両脇に「大正四年夏」「求ム飯坂」、胴下に「14CM」と文字が配置される。この絵を見たとき、「木の花」31号の栄治3番を思い出したが、サイズが異なるので確認のため、現所蔵者に以下のとおり問い合わせた。
 『木の花は5寸、れってるは14CMとの記載でサイズが異なり、あるいは別物かもしれません。れってるは大正4年夏に飯坂で購入、木の花3番には「大正4年1月」との記載があるそうで、同時に複数買ったものか、あるいは同じものでサイズの誤記なのか分りませんが、れってる版画と木の花写真を比較しても同じもののように思います』と。
 所蔵者の返事は『取り出して測ったところ正確には14.2センチほどでした。消えかけの裏書きはほぼ木の花の通りに読めるので、木の花の現物であり、誌上では寸法がやや大雑把になったのではないか?なおかつ大きさからすると、れってるのこけしとほぼ合致することから、大正四年一月に作られ川口氏が夏に求められたと判断できそうです。』とのことだった。
 この版画がいつ作成されたものか分からないが、「れってるのこけし」で発表されたことにより製作時期や入手時期の根拠資料が残ったといえそうだ。興味のある方は木の花31号の写真を参照されたい。また、「湯田古型」はこけし古作図譜(昭和53年11月21日こけしの会発行、植木昭夫編集)221番、「湯野沢こけし」は同349番を版画に起こしたもののようだ。

 無為庵は、いくつかの大変貴重なこけしの所蔵者として川口貫一郎氏のお名前を承知するに過ぎなかったが、本書冒頭の「いつかこんな子できました」の言葉の境地に感じ入るとともに遠く及ばないと思い知らされた。戦時下に苛酷な体験を経た収集家の心境には今の時代ではとても到達できないのかもしれない。氏の足跡を辿ってみたいと思うが資料不足。 

(追補)
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今年の桜は遅く、例年なら葉桜なのだが、4月10日でもこの状態。逗子鎌倉ハイランド西友前にて。昨年は春休みに孫が写生していたのを思い出す。

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